読み返して自分でビックリ、ハラスメントで批判されながらSNSの力でまさかの再選果たした兵庫知事選を見通すような内容。2023年2月、青木島遊園地廃止についての対話等を収録した冊子「対話(おきざりにされた子どもたち 青木島遊園地をめぐって)」。小泉も当時寄稿した。この度発行者の許しを得て、掲載する。当時は随分と編集でカットされたが、これはオリジナル版。一部の誤植も修正した完全版(の筈)♬ |
筆者には自負があった。
一軒の近隣世帯からの苦情が元となって、青木島遊園地を廃止するという長野市の異様な行政について、他の議員やメディアよりも早い時期に着目し、信頼性の高い情報を集めているのは筆者であるとの自負である。情報公開請求を使い、誰よりもこの事案を正しく詳しく論じる論拠を持っている。筆者がその異常性に確証を得た資料をWeb上で公開したのは、それを閲覧した人もまた、同様の結論に至るだろうという期待からだった。いや、期待ではなく、当時はそれ以外に考えていなかったのだ。
青木島遊園地廃止の経過について、筆者が疑問を抱いたのは、2022年10月末日のことである。翌11月には情報公開請求に対し、二百枚を超える文書を長野市は部分公開している。信濃毎日新聞が「子どもの声がうるさいから公園廃止?」と題した記事を掲載し、ヤフー!ニュースに転載されて全国的な社会問題に発展したのはさらに翌月、12月2日のことであった。
この日、筆者はWeb上で既に公表していた市の文書に加え、「青木島遊園地の廃止について」と題された市長レク(=レクチャー。市長あて説明)資料を、掲載した。2022年8月25日付けの文書は、筆者の十九年間の県庁における行政経験に照らしても、また数百件の情報公開請求の経験に照らしても、行政文書としては際立って奇異な印象を受けるものだ。必ずこれを見れば、市民も異常な行政が敷かれていることが分かると考えた。
例としてこの市長レク資料中の一項目である「廃止に至る経緯」だけを取ってみても、そこに列記された出来事は、大半が苦情元世帯の主観・主張で、それに対し行政として客観的・中立的な検証がなされていないのが分かる。
◆「(苦情元世帯は)騒音に苦しんできた。」
⇔音響測定による客観的な指標が残されていないので検証できない。市顧問弁護士は「受忍(我慢)でき範囲」と見解を示している。
◆「(遊園地利用者による)ボールの飛び込み、植栽の踏み荒らし等」
⇔物的な損害があったとの主張なら、その都度解決すべき問題。損害についての証拠が示されないのは、騒音と同様。この資料だけでは読み取れないが、苦情元世帯が景観悪化を理由に難色を示したため、市が防球ネットを設置できなかった経緯もある。
◆「1日に100台の車がお迎えに来る」
⇔騒音を問題としているなら、客観的な指標がない。
◆「遊園地の廃止には大賛成」
⇔意見表明の機会を苦情元世帯1軒には与える一方で、他の住民と当事者のこどもには、その機会は与えない。
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「青木島遊園地の廃止について」2020.8.25市長レク資料 |
遊園地という公の施設をどうしても廃止しなければならないほどの事情が、「廃止にいたる経緯」からは浮かび上がってこない。仮に廃止しなければならない程の問題がそこにあるとするなら、そのような状況を許してきた公園緑地課の管理責任が問われるべきだ。しかし、反省も改善策もなく、「ある意味、皆が被害者。この状況を終わらせる必要がある」(市長レク資料)と、行政として丸で意味のない情緒的な言葉でまとめようとしている。
「庭木の踏み荒らし、迎えの保護者が家の前に並ぶなど18年間の改善要求への対応が不十分」
「廃止で正解。役所からは説明もなく、マナーのなってない子連れや大人達に急に生活乱されて、18年苦しんでるからね。」
(ツイッター上の発言)
メディアもこれに拍車をかけた。長野市の稚拙な判断への批判的な報道が一巡すると、バランスを取る必要を感じたのか、今度は苦情元世帯の主張を検証することなく伝え始めた。
例として中日新聞掲載の2つの記事を引用するが、似た事例は他にも多い。
【苦情は「脅迫、業務妨害」と顧問弁護士見解も… 長野市、市長に伝えず】
「市の顧問弁護士が市側に対し『男性の行為は(市への)脅迫罪、業務妨害罪にあたる』と説明していたことが、分かった。だが、市側は存続に有利に働く可能性がある顧問弁護士の見解を、荻原健司市長や地元区長会に伝えていなかった。九日にあった市議会定例会の一般質問で、小泉一真市議が、市への情報公開請求で入手した資料に基づき市側のこれまでの対応を問うた。」
2022.12.10 中日新聞
【私たちの苦しみも知って」長野・青木島遊園地 苦情寄せた夫妻訴え】
「『公園を無くせとは、一度も言っていない。常識の範囲で遊ぶ分には構わない。ただ、学童施設の事実上の園庭のように利用されていて、尋常ではない音がした』と主張。」
「『十八年我慢してきた。うちのように、家の前で毎日、子どもが集団で遊ぶ声がしたら耐えられますか』と問いかける。」
2022.12.14. 中日新聞
後段の記事では苦情元夫妻の言葉はそれぞれ「主張」と「問いかけ」とされ、客観的な事実としては書かれていない。よく吟味すれば、苦情元世帯が「常識の範囲で遊ぶ分には構わない」との姿勢で、十八年間、毎日こどもが集団で遊べていたなら、市は突然廃止を決める必要があっただだろうかとの疑問に思いいたるだろう。そのような検証は読者ではなく、本来はメディアの側で行うべきだ。疑わしき事実は伝えないか、疑問点を示して報道するのが真に公正中立な態度だろう。このような報道の態度では、読者は混乱しかねない。
一軒の苦情から遊園地廃止を決めた市に憤慨する市民が多い一方で、夫妻の主張のみ伝える同情記事にも一定の需要はある。だからビジネスとしてメディアは書き、余計な検証などしない。
「本当のところはどうなのと問われる」と、遊園地存続と地域融和のための署名運動をしている人から聴く。一体、この問題で責められるべきは、クレーマーの注文を捌き切れなかった市なのか、市を翻弄するクレーマーなのか、マナーのなっていない子とその親なのか。
大体、この問題はおかしなことばかりだ。国立大学名誉教授が、近隣でただ一軒、遊園地で遊ぶこどもの声がうるさいと苦情を申し立てたことが元で、長野市が廃止するという。なぜ、そうなってしまうのか。子供にしわ寄せして遊び場を取り上げることがクレームの解決策であるというグロテスクな話を、にわかに信じられないし、信じたくもない。筆者でさえそうなのだ。
それゆえに、実は、教授は擁護すべき被害者なのだとの説は、一部の市民には実に聴きやすい。その根拠の正確さなど、大して重要ではない。資料があったとしても、子細に検討などしない。人々はそうして、自分たちの住む社会は、やはり、それほど大きく狂ってはいないのだと信じ、安心するのだ。考え、発言する代わりに。
ネット社会の特性が、輪をかけた。遊園地でこどもの遊ぶ声はうるさく、迷惑だと感じる人は一定数いるだろうが、実社会では集合し共同することが難しい少数派だろう。しかしSNSの上では、検索機能とハッシュタグで匿名の少数意見が容易に結びつき、連携できるという事実を、筆者は身を以て経験した。「確証バイアス
仮説や信念を検証する際にそれを支持する情報ばかりを集め、反証する情報を無視または集めようとしない傾向のこと。認知バイアスの一種。」
Wikipedia
「道路族」という言葉も、初めて知った。「住宅街の道路において、大騒ぎをしながら遊ぶ子供、およびそれを注意しない親のことを指す俗語」なのだそうだ。遊園地という遊び場がなくなれば道路族が増えるという因果関係がありそうなものだが、それにも関わらずアンチ道路族が合流したように、苦情元世帯擁護の世論は必ずしも合理的とはいえない。
これ道路族が迷惑かけるのとどう違うんだよ #青木島遊園地 #道路族」
(ツイッター上の発言)
子どもの声は騒音源だと考える勢力を初めとする、ネット上の遊園地廃止派は、少数意見であることを自覚し、積極的な意見表明を繰り返している。彼らが重視しているように見えるのは、真実よりも彼らが通そうとする事実の方が重要であるとする態度とネットワークで、それらによりネット上の世論操作に一定の成果を上げている。
例えば、長野市議のKT氏は青木島遊園地廃止について、Youtubeで次のように「解説」した。
「地主さんに返すという方向にしたらどうか」
「(青木島地区の)ご要望が上がってきたというのが約一年前の話だと聞いております」
「借地がおそらく二十年の借地で決めておったんだと思いますけどもあとじゃあ二年ある中でこれを閉鎖して」
(長野市議KT氏 Youtubeでの発言)
これは全く事実に反する。契約満了期間は2025年3月なのだ。「2004(平成16)年に都市公園法が改正される。同法改正によって、借地公園の賃貸の契約期間が終了したときに公園を廃止できることが明確化された。契約期間の長短は自治体によって異なるが、おおむね15年から20年といったところが相場で、長野市では20年と定められていた。問題になった青木島遊園地も『借地公園』で、2004年4月に契約を交わしている。そこから20年間が契約期間にあたるから、契約終了は2023年3月末となる。今回、青木島遊園地の廃止は近隣住民のクレームが原因とされたが、『契約が切れて、更新されなかった』が実情といえるだろう。2022.12.12. Merkmal
このように、一軒からの執拗なクレームが元になって長野市が遊園地を廃止するという本質から議論をそらそうとする勢力は、互いに結託しフィクションにフィクションを重ねた「事実」の喧伝に努めた。ほかにも、事実として確認できない次のような彼らの主張があるが、これらも一例に過ぎない。
(ツイッター上の発言)
このような現象は、インターネット以前の、ネット社会が発達しておらず、実社会しかない世界では、ありえなかった。少数意見が匿名で結びつくことも難しかったし、ましてや共同でマジョリティを攻撃し、社会にその意見を浸透させるなどということはなしえなかった。
サイレント・マジョリティを、確証バイアスの助力を得たノイジー・マイノリティが席捲する様を、私たちはまさに目撃している。
オンラインメディアの発達で、既存のメディアは衰退を余儀なくされている。おりしも、週刊朝日が50年の歴史を閉じるという。新聞を読まない、新聞よりもネットの情報を信頼する層が出現し、育ちつつあるという。今後はますます、実社会の世論構成が、ネット社会の匿名世論によって浸食されていくだろう。ネット上の無責任で粗野な論説が、オピニオンリーダーとして実世界の世論と政治を動かしていく。それを私たちはドナルド=トランプとツイッターの組み合わせで見せつけられても、遠い国でたまたま起こったことで、日本ではありえないだろうと思っている。だが、それもまた認知バイアスの成すところなのかもしれない。
インターネットで、人々の多様な表現とそれらにアクセスする自由度は格段に上がった。多様な思想に触れることが、多様性で成り立つ民主主義の発達に役立つというシナリオもありうるはずだ。そのためには、ネット上の情報を読みとく力を身に着け、それを駆使して発言する勇気を持てと国民を教育することが必要だろう。そうでなければ、弱者にしわ寄せすることに声も上げられないデストピアに、世の中はますます近づいていく。その中にあってオールドメディアは、ネット世論に阿ることなく論陣を張る勇気を持ってほしい。
案外、長野の小さな公園の行く末は、限られた地域におけるコップの中の嵐ではなく、今後の日本と世界の将来の資金石なのかもしれない。
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